- 神はご自身を分離されはしない 心身の神癒 M・マクドナルド・ベイン氏著 仲里誠吉氏訳 霞が関書房第三話(1-16)神我の声の及ぶ処、それは広大である。それは遠くまた近くに及ぶ。遍在するからである。いずこにあれ、父なる神のいます処わたしもまたそこにいる。いずこにあれわたしのいる処、父なる神、常にわたしとともにおわします。全能なる神のみがおわしまし、それがすべてである。存在するものにして神によらざるものなく、また、その子、神我を経ざるものはない。これこそが大いなる真理である。世界の平和は神我(キリスト)の中に宿っており、すべての人々の魂が神我なる生命に気付き、父なる神の愛と美と力と智と強さとを顕現することを待っている。父 なる神のみが生き給い、しかも神は愛であり、智であり、平和であり、唯一無二の実在であるという真理を認識し、把握することによって、それが自然と発露し てそれ自身を顕現していくようにしさえすれば、あなたたち全員の裡には平安と愛とが変わることなく存在しつづけるであろう。神我(キリスト)の力は、先ずそれに気付き、次にそのことを完全に把握し、静寂の時間(瞑想の時間)を割いて、その間に、主たる汝の神の臨在を一層、自覚することによって、涵養される。真理の把握とは、久遠の神が今、此処に実存し給うことを知ることである。「父なる神とわたしとは一つである」。父なる神はわたしより偉れて大きい。しかしわれわれは共に一体として働くのである。父なる神なくしてのわたしは何事も為しえないが、父なる神とともであれば、神の為し給う業はすべてわたしもそれを為すことができる。われわれは一体だからである。認識が先ず第一である。次に十分に把握し、静寂の時間を置くようにすれば、わたしの力(普遍なる神我の力)があなたたち自信の意識の中で発達して行く。しかし意識は実はただひとつあるのみであって、それが全宇宙にわたって具象化しつつある。それが大生命自信の中なる意識である。大生命がすべての形態あるものを創造り給い、その形態の中に大生命がその栄光を意識的に顕現しうるようにし給うたのである。大生命が大生命自信の意識の中に自己実現することができるように人間の魂と体を創造し給うたのである。このことを真に了得した時、あなたたちは神我の力を自分自身の生活の中に発動するようになる。あなたたちは物質生活、商取引の生活から抜け出て、しばしの間、神の国に休らわねばならぬ。そして常にあなたの生活の中に顕現しようとして待機している真の大生命とキリストの力とを自分が着実に生長させ、かつ展開させつつあることを知るがよい。神我(キリスト)がそのまま顕れ出でるという態度を持ちつづけ、そのことが自分にとって意味するところのものをよく考え、ジッと沈黙したままで待つがよい。こういう生き方によって着実な生長が得られる。この状態は誰かがいうような「空白」状態でもなければ「空無」の状態でもない。また、意識が理解しないうちにやみくもに認容することを強制されようとする際の緊張状態でもない。あなたたちはこのような極端な行き方は避けなければならない。そして、自分と父なる神との間にはいかなる分離もあり得ないという正しい理解に満ちた静けさを、自分の胸の中に保ち続けることである。胸(ハート)の中でこう云うがよい。「わたしの中に留まり給うのは父なる神である。この神こそがみ業を為し給いつつあるのである」と。これがあなたたちの個我意識を遍在している神意識に結びつけるのである。あなたはわたしを認め、わたしの生命が久遠に活き発はつとして働いていることを認める時、わたしはわたしの真性を現わす。わたしの生命の久遠なる特質を認めるのは、神我(キリスト)があなたたちの中で顕現しつつあるということである。天上天下にこれ以上の大きな力はない。天上天下のあらゆる権能がわたしに与えられているのである。これがわたしの本態であり、神の愛の現れである。わたしの生ける臨在が常に活気凛々としてあなたたちとともにある以上、それがあなたたちにとってどういうことになるのかを頭の中で考えるがよい。そのことをよくよく了解(りょうげ)することの中に栄光と平安とは在る。肉体の彼岸に移った人々はまだ生きている。そういう人の中には、まだ肉を保っていると思い込んでいる者もあれば、まだ夢を見ている者もいる。しかしいずれは皆、生ける神があらゆるものの中に神ご自身を永遠に顕現しつつある真理に目覚めるであろう。神の顕現は久遠である。常在であり、あなたたちの裡なる神我として展開しつつある。そういう風にしての結果は、あなたたちや、あなたたちの接触する人々全部にとって極めて有益なものとなるであろう。なぜならば神我、裡なる神の力が顕れ出で、すべての不調和は静かに融け去るからである。不調和なるものは、あなたたちがそれを信じ込まない限り、もはやあなたたちの上に力を及ぼすことはなくなる。(17-22)
(PDF) 第三話 (1-16) 神我の声の及ぶ処、それは広大である。それは遠くまた ...
www.imageclinic.jp/img/pdf/talk3-divinehealing.pdf
参考サイト:
- 心身の神癒 - 長尾弘先生のビデオライブラリー
1972年に発行されたロングセラーの本で、マクドナルド・ベイン著、仲里誠吉訳で霞ヶ関書房発刊によるものです。
20世紀初頭、キリストが直接ヒマラヤで修行した著者の肉体を借りて主が招いたごく限られた人々にされた講話とそれを記録したものが本書です。
- ちょっとディープなトピック
このページではクリスチャンの間でも色々と議論の対象となり
見解の相違が生じる話題について触れて見たいと思います。
誘惑の本質
(注)ヨハネはこの3要素を、それぞれ「肉の欲」、「目の欲」、「生活ぶりの誇り」と呼んでいます(→「堕落とは?」)。
サタンはまず私たちの肉体的欲求を利用して、罪へと誘います(肉の欲)。ここで重要な点は、肉体の各欲求自体には罪的要素はありません。食欲も性欲も自己保存欲も元々すべて神が備えて下さったものです。問題はこれらの欲求を、神の定めた方法ではなく、自己の方法によって、神から独立して満たそうとすることです。男性ならば、例えばストレスを解消するために、飲酒、喫煙、セックス、さらにはドラッグを用い、女性ならば、キッチン飲酒、衝動買い、過食、幼児虐待などに陥ることが多いわけです。
次に見栄えのするもの、すなわち自己の栄光となるもの、例えば富、地位、名誉、成功、評判などを追求するように誘います(目の欲)。そして最後に、神から離れて、自己のプライド、自己の存在証明、自己のアイデンティティーの確立などの追求へと誘います(生活ぶりの誇り)。これらは一見悪いことではないように見えますが、実はすべての動機が自己にある点で、第1種の罪よりもより狡猾な罪であると言えます。
この世の人はすべてこの3要素をその人生をかけて追求しているのです。その営為が社会を構成し、歴史として積み重ねられます。そこには人の罪が自ずと証明されるのです。なぜなら、よく観ると、私たちがこれらの事柄に埋没している間、自己追求に明け暮れ、実際上、私たちは神の言葉を否定し、したがって神のご人格自体も否定することになっているのです。言葉と人格(パースン)は切り離せません。
実は、神は私たちのこれらの3面の要素が適切に満たされる必要があることを十分にご存じです。肉体的欲求も神は満たして下さいます。人間としての尊厳を保つための繁栄も得させて下さいます。私たちのプライドやアイデンティティーも確立して下さるのです。そしてそれはすべて「キリストにあって」がキーワードになります。神を信じない人は、その不信仰の結果、神の配慮にお任せすることができないわけですから、「自己にあって」、自己の力で、自己の必要を満たすことを意味します。そこには神への信頼に基づいた神との麗しい交わりはなく、むしろ神の御旨を拒否し、ひいては神の言葉とご人格を否定しているわけです。
それに対して、神を信じる人は、その信仰の結果、神の配慮にお任せすることができ、「キリストにあって」、神の力で、自己の必要を満たしていただけるのです。そこには神への信頼に基づいた神との麗しい交わりが成立し、神の御旨に任せ、神の言葉とご人格を崇めることになるわけです。よって、誘惑の本質とは、個々の罪の行為へと私たちを誘うことにあるのではなく、この麗しい神との関係を破壊し、私たちを神の言葉とご人格を否定することへと誘うことなのです。
ヘブル書11:6には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いて下さる方であることを信じなければなりません」とあります。ここで「神がおられる」と訳されている言葉は、「存在するか、しないか」の「おられる」ではなく、神が神たる方であること、すなわち神のアイデンティティーそのものを意味します。出エジプト記で、神はご自身を、「わたしは『わたしはある』という者である(I AM WHAT I AM)」としてモーセに啓示されました。
ヨハネ福音書において、イエスもまた「アブラハムが生まれる前から『わたしはある(I AM)』」と言われ、また捕縛される夜、「ナザレ人イエスを」と問われ、「わたしはある(I AM)」(日本語では「それはわたしです」と訳されている)と答えられました。全宇宙を創造された神は、「わたしはある(I AM)」(あるいは「わたしはありてある者(I AM WHAT I AM)」)というお方なのです。神こそ究極の「AM=存在(ある)」なのです。
信仰とはその「存在(ある)」を認めることです(ヘブル11:1)。不信仰とはその「存在(ある)」を否定することです。そしてサタンの誘惑の本質は、第一義的には、私たちを何かの不正な行為へと誘うことではなく、その「存在(ある)」を否定することへと誘うことなのです。ですから、たとえ私たちの行為そのものが善にして合法であったとしても、その「存在(ある)」を認めず、否定するものであるならば、それは罪なのです!罪とはいわゆる「善と悪」の基準で判断されるべきではありません。アダムとエバは「善と悪」を知ることが罪であったのです。
よって聖書では「すべて信仰によらないものは罪である」(ローマ書14:23)と宣言します。信仰によらないとは「存在(ある)」である神ご自身を否定することだからです。サタンの最も喜ぶところは、私たちがその「存在(ある)」である方を否定することです。その方の御旨、その方の言葉、その方の配慮、その方の意志、その方の愛、その方の能力、そしてその方のアイデンティティーを否定することへと私たちを誘導することが、サタンの誘惑の本質です。
すなわち罪とは一つ一つの私たちの行為というよりは、「信じないこと」そのものなのです。個々の罪の行為はその結果(実)にすぎません。反対に義とは「信じること」そのものなのです。個々の義の行為はやはりその結果(実)なのです。もし私たちが、最初に、何か義の行為や善行を追求することに陥るならば、むしろそれはサタンが喜ぶことです。なぜなら、そうしようとすればするほど、私たちは自分や自分の行為に意識を置くことになり、その場合かえって自分の無力を覚え、ローマ書7章でパウロが証ししている果てしない葛藤に落ち込みます(→「罪とは?」)。
私たちが「信じない」のは、私たちが「自分のうちにある」時であり、「信じる」のは私たちが「キリストのうちにある」時です。言い換えますと、サタンの誘惑の本質とは、私たちをキリストではなく自分や自分の必要に意識を集中させ、私たちを「キリストにある」状態から「自己にある」状態へともたらすことです。そこでヘブル書の作者は「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2)と勧めます。ここで英訳では「イエスから目を離さないでいなさい」は"look off to Jesus"となっています。すなわち、自分から目を離し(off)、イエスへと目を向ける(to)という二つの行為が暗示されているのです。視線・視点を向け変えることです。
イエスもエバと同様に3面からの誘惑を受けました(ルカ4章)。「石のパンの誘惑」は「食べるによい」に相当し、それは肉体の欲求を神から独立して満たす罪への誘いです(肉の欲)。「この世の栄華」は「目に慕わしく」に相当し、神から独立して繁栄や栄華を得る罪への誘いです(目の欲)。「飛び降りる」は「賢くする」に相当し、神の子としてのイエスのプライドを証明し膨らます罪への誘いです(生活ぶりの誇り)。イエスはエバが受けたこの3面からの誘惑に対して、サタンと一切の会話を拒否され、直ちに適切な御言葉を取り、「聖書に・・・と書いてある」と応じ、すべて拒絶しました。神の言葉に何らの脚色も、解釈も加えず、そのままの御言葉をサタンにぶつけたのです。
イエスは肉体をもつ人間、さらには男性として(ヘブル2:14-18)、私たちとあらゆる面でまったく同様の誘惑を受けられましたが、しかし罪を犯されませんでした(ヘブル4:15)。よっていかなる領域においても、誘惑を受けること自体は罪ではありません。その誘惑に対して、私たちが「キリストにあって」得ているカルバリでの勝利を信じることをせず、それに屈する時、私たちは自分の欲求や必要を満たすためのある種の行為へと走ります。それが罪です。ここで私たちはイエスと同様のスタンスを取って、神に自分をお委ねし、悪魔に抵抗し、悪魔に対してカルバリの勝利を宣言する必要があるのです(→「霊的戦いについて」)。
自転車を乗り出した頃のように、はじめは何度も何度もころびますし、傷も絶えませんが、訓練をつむうちに、意識せずとも自転車を乗り回すことができるように、無意識のうちにそのことができるようになります。もちろん、時々にはころびます。しかしまた起きればよいのです。まして私たちにはイエスの血が用意されており、神は真実な方であって、私たちが罪を告白するならば、必ず赦し、清めて下さる方なのです(1ヨハネ1:9)。また天には御父の右でイエスが大祭司として、また弁護士として、私たちをサタンの中傷と告訴から弁護していて下さるのです(1ヨハネ2:1)。さらに、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです、と言われています(1ヨハネ3:19-20)。
ハレルヤ!これほどの備えがあるならば、私たちには何か不足するものがあるでしょうか?NEVER, NOTHING! 私たちにはあらゆる領域で神の備えがなされ、キリストにあってすでに祝福され、豊かなものとされているのです(エペソ1:3)。それらをますます信仰によって自分のものとしていきましょう!
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